素朴な風合いの、白いコットン生地のワンピースが、広いとも狭いともつかぬ歩幅に合わせて揺れる。
質素な造りのベルトの両腰に、短剣を一振ずつ帯びた長耳の少女が、石畳が敷かれた街道からそれた、土くれた小道を歩んでいた。
やがて、少女は森と呼ぶにはこぢんまりとした、雑木林の入口に立つ。
少女は、長い間風雨にされされたのか、あちこちがグズグスになって今にも落ちそうな粗末な作りのくたびれた木組みの門を見上げた。
色あせた板材となり果てていた看板には、かろうじて「フリルライト」と読めるだけの文字が残っていた。
淡い色合いの羽根を身にまとった小鳥が軽やかに鳴いて、苔むした丸太の門柱から飛び立つ。
(今日は――いや、『今日から』は、私一人で生きるんだ)
胸に小さな決意を秘めた少女は門をくぐり、雑木林の中へと静かに踏み込んでいった。
長耳の少女の名はミリカ。ファミリーネームはない。
種族は、華奢な長耳と体つきを特徴とした色白で長命な肉体を持ち、世界各地の自然豊かな森に集落を構える、いわゆる森エルフと呼ばれる存在だ。
ミリカは、つい先日、自分自身の父親と喧嘩して実家を飛び出してきたばかりだった。
住んでいた集落からほど近い街の互助ギルドへ、開店と同時に着の身着のままかけこんで、掲示された依頼の数々を鬼気迫る目つきでしばらく見比べていたのも、今の彼女にとっては記憶に新しいことだった。
ミリカのとげとげしい様を心痛な表情で見守っていたギルド職員――彼いわく、彼女の父と顔なじみだったという――が、彼女の事情を訊いて、掲示板に張り出される前の依頼の一件を持ってきた。
この街からほど近い「フリルライト」と呼ばれている雑木林で、異常発生しているグリーンスライムを討伐してほしい、という周辺地域の住民からの依頼だった。
異常発生の根源の調査と殲滅を他の腕利きの冒険者たちが請け負い、残党グリーンスライムの始末をミリカがやる、という形だ。
スライム類の退治なら、駆け出しの冒険者であるミリカの腕前でもなんとかなるかもしれない。
それに、多少念を入れすぎて潰してしまったとしても、もともと繁殖力の強いスライム類なら簡単に適正な生息数を取り戻すだろう、というのが職員の見立てだった。
粘液の多少の抵抗をともないながら、外部からは見えづらい内臓部までをしっかりと、グリーンスライムの身体をミリカの短剣たちが切り伏せていく。
彼女の細腕から繰り出された軽やかな二発の斬撃を受けた後、やわらかな身体から鮮やかな若葉色の体液を噴き出して、グリーンスライムは茂みに身体を崩していった。
雑木林の奥の小さな泉のそばで巣くっていた、グリーンスライムの群れの最後の一体を斬り倒し終えて、ミリカは己の周囲を見回す。
人目に付くような所に、緑色の粘液質な塊がうごめいている様子はない。草の上や土の上をのそのそとはう、独特の移動音も聞こえない。
今倒したこの一体と、今まで倒してきた分を合わせると、依頼されていたグリーンスライム退治はこれで終わりだろう。
ミリカは両方の短剣を鞘に納めて、大きく息を吐いた。
グリーンスライムは緑を意味する言葉を冠した名にふさわしく、林や森といった木々が立ち並ぶ環境に生息する種類のスライムだ。
魔除けが施された街道を離れた大地のあちこちでよく見かける、すんだ水のような体色にもっちりぷるぷるとした身体で地をはうスライムと同じ種類のモンスターではあるが、こちらは新芽のような明るい黄緑の体色を持っている。
ただのスライムは雷属性に、グリーンスライムは炎属性に弱いという違いはあるが、物理攻撃と水属性にはいくらか耐性がありながら、基本的には撃たれ弱いところはどちらも似通っていた。
故郷の森でも、きびしくて過保護な父親の目を盗んで、何度も挑んでつぶしてきた存在だ。
この雑木林にいるグリーンスライムたちも、旺盛な再生力を発揮されないように内臓部を確実につぶしていけば、そこまでてこずる相手ではなかった。
そよそよと、木の葉と生い茂る草を、風がなでていった。
最小限の人の手が入れられた木立が、つややかな青い葉を茂らせて、その間をあぜ道が走っている。
ミリカが鋭敏な耳を木々の方へ向けると、小動物の足音や、鳥のさえずりが風の根に混ざって聞こえてくる。
ミリカの手によって、フリルライトの雑木林は、無事に平穏を取り戻した。
彼女は手持ちの道具入れから、たった一つ入っていたポーションを取り出す。
スライムは弱く動きの鈍い敵ではあったが、あまりの数の多さから、それなりに攻撃を喰らってしまっていた。
打撲ばかりだが、身体のあちこちに傷を抱えたまま街への帰路につくのは、万が一のことを考えるとなるべく避けたかった。
薬瓶の栓を開け、体力回復や傷の治癒に効く薬草のエキスが混ざりあった液体を口にする。じわり、じわり、と身体の疲れや痛みが癒えていく。
ほろ苦いポーションを飲みながら、私にできることなら、と意気込んでこの依頼を受けた時の、職員の少しほころんだ顔をミリカは思い出す。
(……あの人、なんだか嬉しそうだった)
そういえば、自分はあの職員がいる支部で互助ギルドの会員登録をしていた。父と共に二人でそこの窓口へ並ぶこともあった。
彼は、案外、自分のことも見ていたのかもしれない。
弓の才能が全くなくて、いつまでも独り立ちできないエルフの娘に、自分でも何かできることはないだろうか、と。
彼が込めていたかもしれない思いにあたたかな気持ちになりながら薬液を飲み干し、瓶を口から離したまさにその時――ガサッ、と草が揺れた。
乾いた音のした方に、ミリカは目を向ける。
彼女の眼がとらえたのは、人の子ほどの大きさの毒々しい色をした大グモが、ミリカの左脚にちょうど噛みつこうとしている瞬間だった。
「――!!」
ミリカは急いで大グモと距離をとる。ざりっ、と地面と草地が簡素な革靴の靴底とすれた。
大グモのキバの先が、ミリカの肌を浅く、しっかりと裂いていった。じわり、白い肌に赤い血がにじむ。
ポーションを飲んでいた時の、気がゆるんでいた瞬間を狙われたのは明らかだった。
己のうかつさを呪う間もなく、大グモの鋭いキバに宿る毒素が、急速にミリカの身体に回っていく。
一呼吸ごとに、息が上がる。じわじわと、しかし、確実に体力が奪われていくのが分かった。
アンチドーテは一つも持っていない。手持ちが足りなくて、ポーションを一本買うだけで手いっぱいで、貴重なそれさえも、先ほど飲み切ってしまった。
大グモが獲物を前にうなり声をあげる。複眼に写ったミリカをいい獲物だと見定めた、捕食者の歓喜の声だ。
彼女の脳裏に、自分が家を飛び出す直前に見た父親の顔がよぎる。
己の娘のふがいなさを罵倒する癖に、今にも泣き出しそうな、ぐちゃぐちゃにゆがめた表情をした顔を。
今からでも帰って、「私が甘かった」と謝れば、彼はあきれながらも、このふがいない娘を何度も受け入れようとするだろう。
(――いや、私は、何のために、あいつの元を飛び出した?)
――父に幾度も「今度こそは的を射て」と言われながら矢を放っても、全て大きくそれてあらぬ方へ向かい、そのたびに未熟さを叱られた。
――小遣いをためて買った短剣二振りで、獲物をしとめて持ち帰れば、エルフごときがそんなものにうつつを抜かすなと彼に罵倒された。
ミリカは短剣の柄を握った。腕を交差し、間隔を寸分取らずに両手分、順手で抜刀する。
金属がすれる音が、凪いでいた雑木林に響いた。
解毒できないとなれば、短期決戦をとるしかない。毒で手足がしびれるまではいかないのが、幸いだった。
傾き始めた日の光が、大グモのキバに反射する。
大グモが大地を蹴り、ミリカに飛び掛かる。同時に、彼女はそれを正面から見据え、踏み込んで――右から左、左から右へ、腕を振り下ろし――。
(――二刀流でも、このエルフが立派に生きられるってことを、証明するためだ!!)
――短剣の刃が、大グモの頭部を切り裂き、太い脚と胴体を切り離した。
二振りの一閃の斬撃に急所をとらえられた大グモは、肉体を重たい音を立てて地に落とし、息絶えた。
ミリカの胸に、目ににじんだ、焦がれるような興奮は、毒に代わってじんわりと手足の指先まで広がっていく。
初心者の幸運だったとしても、この勝利は確かなものだと、身体中が喜びにふるえていた。
――こうして、「独り立ちをする」というミリカの「冒険」の最初の一歩は、ここに果たされたのだった。
* * *
「で、この辺に入口があるんだけど」
「あの、門があるところ?」
眠たそうな青い目をした栗色の髪の青年が、あつらえのよさをたたえた手袋に包まれた指で、木組みの門の看板を指し示す。
豪奢になりすぎない程度に金色の装飾が入ったしっかりとした暗色の布で仕立てられた上着と、涼やかな色合いの白色の防具が、彼の身なりの良さを漂わせていた。
「そう。あそこに『フリルライト』って書いてあるでしょう」
「ここがそうなのか」
ミリカは、青年――ゼストと、最近知り合ったトレジャーハンターのリリーと共に、フリルライトの入口に来ていた。
彼女にとって、この地を踏むのは実に数十年ぶりだった。耳をすませば、小鳥のさえずりがかすかに聞こえるところは、あの頃と変わりはない。
「雑木林という割には、結構整えられているんだな」
「奥の方に遺跡があるらしいし、観光客目当てでいろいろやったんだろうなぁ」
リリーが興味深そうに林の中を覗き込んでいる。入口からほど近い一角には、昔はなかった案内板が立てられていた。
今回、三人がこの地に足を運んだのは、その遺跡に目的があるからだった。
数日前、ここからほど近い古代遺跡の内部調査で、とんでもなく強い人型の怪物に襲われたミリカとリリーは、遺跡内部から突如現れたゼストに命を救われた。
ただ、そのゼストは、見事な太刀さばきで怪物を屠った直後に昏倒してしまい、再び目を覚ました時には二人を助けたこともふくめて記憶を失ってしまっていた。
「古代遺跡の深部から出てきたのなら、それらしきところに連れて行けば記憶がよみがえるのでは?」という、リリーと彼女の知り合いの考古学者の提案の元、今はこうして三人で遺跡巡りの旅に出たというところだった。
また、記憶と共に剣の腕前も失ったゼストのために、互助ギルドで引き受けた依頼を一緒にこなして、もう一度彼の腕を磨いていこうというのも兼ねていたりもする。
ふと、ミリカは門を見上げた。
あの時ボロボロだった門は、全て新しい素材に取り換えられていた。その様に、否応なく、時の流れがもたらす変化を突きつけられる。
「今は、そうみたいだね」
神妙な面持ちで門を見上げるミリカに、リリーが声をかける。そのまなざしには、無遠慮に探るような意地悪さがにじんでいた。
「ミリカって、実はこの近くで育ってたりするの?」
「……昔、用事があって、立ち寄ったことがあっただけだよ」
そう言って、彼女は門の下で立ち尽くしているゼストの元へ駆け寄っていった。
新たなるゼストの「冒険」の一歩が、今ここで踏み出されようとしている。
それは、数十年前にミリカが踏み出した「冒険」の始まりと、同じ地での出来事となった。