夜は、寒くて暗い。
木々のさざめきが風によってかなでられる中、黒髪の青年――ジーニアは、焚き火を前に息を吐いた。
木の枝に刺したマシュマロは、紅い炎に焼かれて焦げ目が付いている。
動きやすいノースリーブで、腕を露出させた服装もそろそろ仕舞いだろうか、と彼は思った。
確かに、秋も入ってしばらく経つ。フード付きの上着を日常的に羽織る時が来たか、と薄づくりの袖に腕を通した。
パチッ、と薪の一本が爆ぜた頃合いを見計らって、封を切っていたビスケットに焼けたマシュマロをはさみこむ。
これで、美味しいスモアの出来上がりだ。
わかしていた湯以外、他に火にくべるものが無いため、枝を全て焚き火に折り入れた。パチパチと、細い木材は燃えていく。
ジーニアは湯気を上げるスモアにかぶりつく。ぷく、と噛み締めた側から柔らかくなったマシュマロが口内を満たしていく。野営食のシメとして申し分無い、程よい甘さが心を満たしていく。
そのまま噛み締めれば、ビスケットのクリスピーな食感もアクセントになって、非常に満足度が高い。
小鍋でわかしていたお湯を、質素で無骨なステンレス製のマグカップに注ぎ込む。ぶわ、とひときわ濃い湯気がマグカップから上がった。
熱すぎずぬるすぎずの、ちょうどいい温度に温められた湯をジーニアは飲んだ。
(あたたかい)
焚き火の側には、愛用のナイフで仕留めて夕食にしたウサギの亡き骸の骨が転がっている。白い骨は、焚き火に照らされて、赤白く見えている。
紅茶もコーヒーもない、とても質素で簡素な食後のデザートだった。
ジーニアはとても優秀な兵士で、軍人だった。
彼が生きた時代は、戦乱に満ちた時代だった。
人類を滅ぼさんと猛攻を仕掛ける人工知能を相手に、あまたの仲間たちと共に世界各地の戦場を駆け巡り、襲いかかってくる機械軍を殲滅する――そんな日々を送っていた。
そんな戦いごとに満ちた日々の中でも、恋というものは起こるものだった。
(あの時も、アウトドア用のガスコンロで、三人でスモアを作って食べたっけか)
冬も大分過ぎた、春にはまだ遠い二月の上旬の頃だったな、と彼はその時の光景を懐かしんだ。
強く、可憐で美しくて愛らしい恋人のヨウクと、真面目で頼りになる後輩のゼストと。
酒のつまみはないか? と乗り込んできた武人の女を、すまないねぇ、と寝床へ連れ帰る気さくな男の襲来には驚いたものだったが、小さなパーティには終始和やかな空気が流れていた。
「何か飲み物飲む?」
ヨウクは電気ケトルでわかした湯をステンレスマグに注ぎながら、二人に尋ねた。
私は紅茶飲むんだけど、と慣れた手つきで開封したティーバッグを湯の入ったマグに彼女は落としいれていた。
「俺は紅茶がいい」
ゼストが頬杖をつきながら言う。俺も、とジーニアも続いた。
「じゃあ、決まり。三人で紅茶飲もうか」
夜も遅いから薄めにするね、と「節約」の文字が貼られた待機室で、彼女は手早くお茶を作っていく。
低めに設定された室温の部屋に、まろやかな香りが満ちていった。
「適当な濃さで作ったんだけど、どれにする?」
「俺は一番薄いので」
ぜストは三つ置かれたマグに適当に手を伸ばした。ふちをつかんで持ち上げ、サッと手元に置き直す。
「俺はこれにする」
ジーニアも二つになったマグの一つを手に取る。ちらりと見えた色は、なかなか濃い。今夜は眠れるだろうか。
「じゃ、それで決まりね」
ヨウクの軽やかな声を聴きながら、彼は紅茶をすする。マグカップに口を付けている後輩のしかめっ面からすると、彼が一番濃いものを引き当てたようだった。
うん、まあまあの濃さだ。
ジーニアは独りごちながら、愛しい恋人の横顔を眺めていた。
(あの後、結局人恋しくなって、ヨウクのベッドにもぐりこんで、二人で眠ったんだった)
ジーニアは焚き火をぼーっと眺めながら、過去を振り返っていた。
大きな戦争が終戦を迎えてなお、各地に残る戦乱と混乱の種を潰すために、あちこちを奔走する日々――。
月日が経てば情勢は落ち着きを取り戻しつつあるが、それでも油断はなかなか出来なかった。
とはいえ、年月というものはなかなかに偉大なもので、終戦から二年目を迎える頃には、ヨウクとのデートを日常的に楽しめるようにはなっていた。
お互いのオフタイムが重なったそんなある日、ジーニアとヨウクは軍施設近隣の市街地へデートへと出かけた。
秋も深まる十月半ば、道行く人々の服装が長袖になった頃だった。
私服に着替えて街角散策を楽しんでいた二人だったが、ヨウクがデパートのショーウィンドウの前で立ち止まったのだった。
「どうした?」
トラッドカジュアルな装いに身を包んだ、私服警備も兼ねた状態のジーニアが、彼女に問いかける。
視線を上げれば、そこにはショーウィンドウに収められた状態のウェディングドレスがあった。
彼がそれを認識した瞬間、ヨウクに言葉を掛けたことを後悔した。
(――ああ、これは、仕事の一環でしか着られないものだって言うのに)
一度だけ、警備だと言われて、結婚式場に二人連れてこられたことがあった。
公安の方から話はうかがっております、と係員がウェディング用のタキシードとドレスを着せてきた。
純白のドレスに身を包み、ベールを被ったヨウクは美しかった。
そのまま、結婚しよう、と言ってしまいたいほどだった。
明らかに上ずったヨウクが係員の方を向いた時、警備はこれで終了です、という言葉が投げかけられた。
「申し訳ないんですが、私服に着替えましょうね」
はい、と答えるヨウクの声は明るかったが、落胆を隠せないのは明らかだった。
このまま役目を、お互いの立ち位置を忘れて、ただの恋人同士として日常生活を送れたらよかったのに、と沈痛な気持ちに当時のジーニアはなったものだった。
「いやー、きれいだなって」
ヨウクののどかな声に、ジーニアはハッと意識を取り戻す。
いかんいかん、デートも兼ねているとはいえ、今は私服警備の途中だ、と。
「そうだね。きれいだね」
「ね」
辛い思い出を抱える彼女に対して、凡庸な言葉しか投げかけられない自分は愚かだな、とジーニアは己を呪った。
同時に、自身が生体兵器の軍人という、明日をもしれぬ、人ならざる身であることも。
ヨウクとはキスもする、ハグはもちろん、一線を超えた関係になることも日常的だ。
その一方で、戦場で敵対対象を討伐することも、警備と称して各地の現場に職務応援に行くことも、二人にとってはルーティンだった。
一応、軍施設のある地域に住民登録はしてあるということになっているが、それでも、結婚などのささやかな営みの一部は叶えられないということは体感的に分かっていた。
かりそめの人権を保証された、人の形をした人ならざる存在。いつまで経っても人間になれない悲しき人造人間。そんな認識ばかりが、日々の営みの中で積み重なっていく。
じわっ、と眼を濡らす涙の感覚に顔をふせながら、ジーニアは宿舎への帰り道をヨウクと共に歩んでいった。
あの時俺は、ヨウクにそれ以上の何かが出来ていたのだろうか――。
大部分が炭になりつつある薪の中で、焚き火の炎はゆるやかにその勢いを落としている。
ジーニアはおだやかに燃え続ける炎に照らされながら、過去を回想する。
ただ、いくら振り返っても、あれ以上の答えは出なかった。
(――無力だな、俺も)
そろそろ、丸太を枕に寝床に着く頃だ。
汲み置きしておいた水を焚き火にかけ、野営道具を道具袋に片付ける。
旅暮らしの中で、幾度となく繰り返されてきた営みの一コマだった。
今年も冬の旅時は凍えて寒いものになるだろうな、と焚き火の跡とは反対側に身体を横たえたジーニアは、まぶたを閉じた。
木々の葉の隙間から見えた満点の星空が、きれいだった。
朝の日差しは暖かくて柔らかい。
鳥のさえずりで、ジーニアは目を覚ました。
朝食に昨日のビスケットの残りを食む。水筒の水をあおり、口腔内に残るビスケットを腹に流し込んだ。
袋のゴミは後で街のゴミ箱に入れておけばいい。
彼はスコップを取り出し、掘った穴にウサギの骨を地中に埋めていく。安らかに眠れ、と祈りながら。
土を被せ終わる頃には、陽の光もキラキラと森の様相を照らしていた。
(今日は宿のある街でゆっくり過ごそう)
幸い路銀もたんまりあるしな、と彼は胸中で独りごちた。
今日の旅路は湿度の低い秋らしく、快適なものになるに違いない、と空気の感覚から感じ取る。
――そうして彼は、旅暮らしの日常へと戻って行った。
今日も中心市街地の街並みは、活気に満ちている。
市内の目抜き通りの一角に位置する百貨店のハイブランドのショーウィンドウには、レース織りをふんだんにあしらわれた純白のウェディングドレスと、その片割れの花婿にふさわしいホワイトタキシードが展示されていた。
ジーニアはショーウィンドウを見上げながら、目をまばたいた。
白いシーツをヴェール代わりに花嫁と花婿の真似事をしたり、大それだったお金の使い道もないからと、二人で盛大に奮発して、プラチナのペアリングをカジュアルジュエリーショップで購入したりと、籍を入れられない代わりに歩み寄ることはしてきたな、と。
彼は左手から厚みのある革手袋を外し、指輪をなぞった。彼女の最期を思い出す。
ヨウクはジーニアをかばって凶弾に倒れた。だが、その顔は使命と決意をやりとげた、安らかさに満ちた顔だった。
今すぐには無理ですが、人格移植をともなう人体蘇生を行えば、お連れの方と再会できるかもしれません、と病院で脳神経科の医師に言われた言葉を思い出す。
――この文明の進度なら、いつかまた、ヨウクに逢えるかもしれないな。
その時の彼女が、己の知っている彼女だとは限らないことを、ジーニアは知っている。
けれど、俺の願いは、いつか叶うかもしれない。
そう、ささやかな決意を頭の片隅に抱えながら、彼は今日も旅暮らしを続ける。
(さて、今日はどこに立ち寄ろうかな)
ごくごく軽い朝食を摂っただけだからか、まだまだ腹の容量には余裕がある。どこかの喫茶店かファーストフード店で、モーニングメニューをいただこうか、と食事の算段をとる。
ブラックフライデー時期の開店を目前にして、行き交う人々の人数はかなり増している。年の瀬も近くなってくる、駆け込み商戦の第一段階の季節だ。
そうだ、北の方に進路を取ってみよう、と決めたジーニアは、人の流れに逆らって歩き出した。
今日の天気も晴れ晴れとしていて、街歩きには申し分ない気温だった。
そんな彼から幾分か離れた所で、おだやかな顔で人混みに紛れていく様を、ヨウクは店の角から見ていた。
ふっ、とおだやかな笑顔を浮かべると、彼女は姿を消した。
――愛しの君と巡り合わず、人の流れにまぎれながら。